◆ ペテロの生涯(3)
習志野バプテスト教会週報
「救いは一瞬にして得られるが、本当のクリスチャン人格は一生かかって作られる」とある伝道者は言った。 ペテロの信仰のあゆみをたどるとその感じを強くする。イエスさまに声をかけられたペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは?直ちに網を捨てて?従ったと聖書は書きしるしている。この四人はそれ以後、大切な場面に必ずといってよいほど登場する。イエスさまの側近中の側近といえるだろう。だがどのようにしてこの四人は働きへの召しにこんなにも単純に、そして簡単に従うことができたのであろうか。 流行りすたりの世で、どこの家でも母子の言い合いがあるだろう。親がたのんでも子供はなま返事をするだけでなかなか動いてくれない。しまいにはお母さんもかんしゃくをおこしてどなってしまう。 ところがペテロたちは、イエスさまのお声に対してただちに従ったというのだ。彼らは何も考えずに立っていったのだろうか、それともこの時より前に何らかの予備的な談合があったのだろうか。聖書は詳しく語らないが多分、前交渉などはなかったと思う。マタイ伝一九章二七節以下に、 ”ここにペテロ答えて言う「みよ、われら一切をすてて汝に従えり、されば何を得べきか」イエス彼らに言い給う「まことに汝らに告ぐ、世あらたまりて人の子その栄光の位に坐するとき、我に従える汝らもまた一二の位に坐して、イスラエルの一二の族をさばかん。またおおよそ我が名のために、或いは家、或いは兄弟、或いは姉妹、或いは父、或いは母、或いは子、或いは田畑を捨つる者は、数倍を受け、また永遠の生命をつがん。されど多くの先なる者後に、後なる者先になるべし。” とあるから、はじめからペテロたちが大きな報酬を期待していたのではないようだ。彼らが網を捨てたというのは、生活の基礎となるべき収入源の仕事を捨ててキリストに従ったということだ。ペテロには家族があったのだから、容易な決心ではなかったと思うがキリストは家族の必要を満たして下さったのであろう。(マタイ六・三三) 救いは無代価であるが、キリストの弟子となることは全き明けわたしを意味する。自分を捨てて、主に従う道である。神さまのみ心にすなおに従うことである。私たちはこの単純さに欠けるのではないだろうか。 ペテロは税金を納めるために何をしたであろう? マタイ伝一七章二四節から二七節をみるとふしぎな方法を知ることができる。 ”エホバ備えたもう”という約束を体験しよう。(続) ◎ 暗誦聖句 エペソ書 五章十九節後半
|