◆ ペテロの生涯(4) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年十月十日号 
        ▽神の経綸を黙想しよう

□ 誤 解
 人間の社会には言葉がある。しかし言葉は万能ではない。

 ワープロを職業とする女性が、だんだん字を忘れるというなげきを聞いた。発音は一つでも、漢字はいく通りもあるから、ポツンポツンとキーをたたく人ならいざしらず、三〇分でこの原稿をうってしまう人などになると数字をおぼえて字をさがすから、時には同音異語になることがある。ワープロなり印刷なりは校正がきくからすぐまちがいを訂正できるが、話し言葉はのこらない。

 一度口から出たことばは、聞き手にどう受けとめられるだろうか。相手の表情にとまどいが見られれば、自分の言った意味とはちがうように受け取られたかな、とわかる。ところが、一端口から出た言葉は、強い反応をおこしてしまって訂正された言葉をすなおにとらなくなることが多いのだ。話者の言いまわしの「うら」に本音が隠されていると考えられてしまうのだろう。

 善意から出た言葉も真意を確実に伝えるとは限らないから人間関係は難しい。

「あなたのことは私が一番よくわかっています」
という人がいる。案外見当はずれの場合もあるのだが…。実はシモン・ペテロの誤解がそうだった。

 マタイ伝一六章一三?二〇節と二一?二三節のいちじるしい対比を考えてみよう。人間として最高の信仰告白をしたペテロが、キリストの身代りの死と復活のことを耳にすると主イエスをいましめた、と書いてある。

”サタンよ、わが後に退け。汝はわがつまづきなり。汝は神のことを思わず、かえって人のことを思う。”
イエスさまのお口からこんなにきびしい言葉が出るとは誰が想像しえたであろうか。イエスさまにほめられて有頂天になっていたペテロは、十字架の意義を理解していなかった。キリストが地上の王国をお建てになるものと誤解していたのである。

 クリスチャンにとって大切な行動原理は何であろう。この世の人間の交わりを第一と考える人はやがて人情におぼれて流されてしまうかもしれない。私たちは人情の機微を無視するものでもないし、反対するものでもない。

”我いま人に喜ばれんとするが、あるいは神に喜ばれんとするか、そもそもまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なお人を喜ばせおらば、キリストのしもべにあらじ。”
(ガラテヤ一・一〇)

 神を第一の行動原理とするならば自然、横の関係も正され、本当の兄弟姉妹の関係がつちかわれると思うが。

           ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句 エペソ書六章十節     
”終りに言わん、汝ら主にありてその大能の勢威によりて強かれ”
 
 
 


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