◆ ペテロの生涯(9)
習志野バプテスト教会週報
かくて言い給う
ここにおいて弟子たちのうち多くの者、かえり去りて、またイエスと共にあゆまざりき。 イエス十二弟子に言い給う「汝らも去らんとするか」。 シモン・ペテロ答う「主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言葉は汝にあり。又われらは信じ、かつ知る、なんじは神の聖者なり」。 イエス答え給う「われ汝ら十二人を選びしにあらずや、しかるに汝らの中の一人は悪魔なり」
少し長い引用だが聖書をお持ちでない方のために本文をご紹介した。 イエスさまの弟子たちが皆心から信じ従ったかというとそうではない。六〇節をみると、弟子たちがキリストのお言葉を聞いてつぶやいたと書かれている。それは、わが肉をくらい、わが血を飲む者は、我におり、我もまた彼におる。=i五六節) という人間の思いもよらない教えのためであった。
私たちは環境に支配されやすい。まわりの人の意見に主体性を失うことが多いのである。とくに日本人は主体性の弱い国民だと評されている。クリスチャンになると私たちはもののとらえ方、考え方がかわってくる。生活の中心は聖書に書かれている神様であり、人生のよろこびはキリストのみ心の中に生きることである。 クリスチャンは日々神さまのみ言葉と聖霊の力によってかえられる。日本人であろうと努力することよりも、神様によろこばれる人になろうと心がけるのだ。当然、はためには、…らしくない≠ニうつる言動もあろうかと思う。ごうまんな気持で言うのではなく、信仰者の生き方として発言をするならば、私たちは世界人≠ニなる必要があるのではないだろうか。コスモポリタンとはちがい、キリストにある世界人だ。是を是とし、否を否と発言出来る信念の人でありたいものだ。 シモンは度々重大局面でキリストへの信仰を言いあらわしている。その大胆さ、そっちょくさを見習うべきではないだろうか。キリストはシモンのこうしたよい気性をよろこばれたのであろう。彼は発言する時に右顧左べんをすることがなかった。まさにペテロたるゆえんである。 謙遜と自己の信仰表現。調和には歳月がかかろう。
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