◆ ペテロの生涯(10) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年十一月二一日号 
        ▽ 涙をもって種をまく 
 

  「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」と昔の人は言った。信仰の歩みはそれに似ている。

されど多くの先なる者後に、後なる者先になるべし=@              (マタイ一九・三〇)

 ペテロは主イエスに対して絶大な信頼をおいていた。どんなことでも聞くことが出来るし、答えてもいただけると確信していた。彼が他の弟子よりも多く恵みの場にいることが出来たのはその探究心のおうせいなためではなかったろうか。

…弟子たちは、その言葉を悟らず、また問うことをおそれたり=@         (マルコ九・三二)

 信仰の世界でわからないことはいろいろある。聖書を読んでいても理解しにくいところが多い。

 あなたが聖書をお読みになる時に辞書や事典をそばにおいていらっしゃるだろうか。文語体はむずかしくてわからないといわれるが、現代語訳なら意味が理解出来るのだろうか。たとえば「誰でもあたらしく生れなければ神の国を見ることが出来ない」と聞いてすぐ本来の聖句の意味をつかめるだろうか。表現のやさしさは必ずしも理解とはつながらない。少しむずかしい漢字や表現があると読むのをやめてしまいがちだ。それでは勉強にならない。学生が辞書を片手に外国語のテキストを読むように私たちも聖書にとりこむことが必要ではないだろうか。

 あなたは「こんなかんたんな質問をしたらみんなに笑われるかもしれない」と思って口をとざしてはいないだろうか。そんなことはない。質問する生徒と教師の間柄は密接になる。教師は生徒の質問によって自分が教えていることがどれほど理解されているかが推量出来る。古代から問答形式は学問の領域にもとり入れられている。

 ペテロはキリストのたとえの意味をおたずねした(ルカ一二・三五〜四一)。主イエスをうらぎる弟子がいると耳にして、直接おうかがいをした(ヨハネ一三・二一〜二四)。

シモン・ペテロ言う「主よ、いずこに行き給うか」=iヨハネ一三・三六)。有名な小説「クォ・ヴァディス」の題名でもある。
求めよ、さらばあたえられん。たずねよ、さらば見出さん。=@           (マタイ七・七)

 シモンは彼の学問とか才能のゆえにキリストに愛されたわけではない。幼な子のような単純さ、熱意、信仰、自己否定などが彼の弱さや失敗をはるかにしのいだのであろう。

 主のあわれみとえらびにあずかり、受け入れられる人は何とさいわいなことだろう(エペソ二・五〜八)。
                  ( 続 く )
 
 

◎ 暗誦聖句  コロサイ書一章一四節  
我らは御子に在りて贖罪すなわち罪の赦を得るなり
 
 


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