◆ ペテロの生涯(11)
習志野バプテスト教会週報
神 おぼえたもう 聖書中には、「神おぼえたもう」という表現が多く書かれている。コンコーダンス(語句索引)を調べると二五〇回にも及んでいる。人間は何かにつけて忘れやすいものだが、神さまは人間との約束をおぼえていてくださり、決して知らないふりをなさらない。契約の神という表現があるほどだ。
「私は一生信じてゆけるかどうかわかりません」
「私は信仰が弱いからほかの人のように信仰だけで生きられません」
混雑する大通りをわたろうとする父子が、どのように手をつなぐか考えてみるがよい。子供が父親の手をにぎるのではなく、父親がしっかりと子供の手をとって信号がかわるといそいで横断する。信仰の歩みも同じだ。 私たちの信仰の力〓信念などはたかがしれている。信念だけで何かをやることは不可能ではない。だが、信仰は自分の力では何一つ出来ない種類のものだ。信じる対象のお方があって、信仰がある。しかも信仰とは、 それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を真実とするなり。=@ (ヘブル書一一章一節) 信仰なくしては神に喜こばるることあたわず、そは神に来るものは、神のいますことと神の己を求むる者にむくいたもうこととを、必ず信ずべければなり
ペテロは自分の信仰の力を過信した。いや、自分を過信したというべきかもしれない。たとえほかの人がキリストを裏切ることがあっても自分は絶対離れません、と豪語した彼だ。 シモン、シモン、見よ、サタン汝らを麦のごとくふるわんとてこいえたり。されど我なんじのためにその信仰の失せぬように祈りたり。なんじ立ち帰りてのち兄弟たちをかとうせよ=@(ルカ二二章三一、三二節) 私たちの救いの確証、日々の必要のみたし等は、私たちの善行や努力の結果ではなく、神さまのお約束にあることを忘れてはなるまい。 すべてわが名をもて称えらるる者をきたらせよ、我かれらをわが栄光のために創造せり。 このゆえに彼は己によりて神に来る者のためにとりなしをなさんとてつねに生くれば、之を全く救うことを得たもうなり=@(ヘブル七章二五節)
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