◆ 神様の作品に失敗作などない 
 
 
(メイヤー博士の証し その1) 

 医者は言った。「彼は決して歩くことも、話すことも、そして手を使うことも出来ないであろう……」。神は言われた。「行って、障害者の人たちに福音を伝えなさい。私のために!」 

 私の人生のはじまりは、罪あるものとして生まれたという点では、世界中の全ての人と同じでした。しかし、「脳性小児マヒ」をもって生まれたという点においては多少ほかの人と異なりました。私にはどうしようもないものが二つありました。一つは罪の問題、もう一つは肉体的な問題でした。しかし、イエス様は私の罪の問題を二千年も前にカルバリの十字架の上で解決して下さり、神様は肉体の問題を年を経るごとに解決して下さいました。 

 皆さんは、私が医者や理学療法士、整骨士などの診察を信じていないとお思いかも知れません。しかし、それは間違いです。私はそれらは必要だと思います。主は彼らをお用いになったと信じています。なぜなら、主は彼らに肉体を整える知識を与えて下さったし、これからもお与え下さるでしょう。しかし、これだけは覚えておかなければなりません。すなわち、医者は整骨したり、組織を縫い合わせたりすることは出来ますが、それを癒せるのは神様お一人だけだということを。 

 それでは、1928年6月7日オハイオ州ロレインから始まった私の人生の話に戻りましょう。私の両親はかかりつけの医者から、生まれた子供が歩けず、話せず、手も使えないであろうと告げられました。その後三、四年して、一度に二つの病気(はしかとおたふくかぜ)が併発し、耳が聞こえなくなりました。私は目を除いて全くの障害者となってしまいました。ただ、目だけはよく見えました。 

 少年時代はほとんどの時間を色々な病院を回るのに費やし、体に少しでも益になる治療を受けに行きました。私が歩こうとチャレンジしている傍らで、子供たちだけでなく、大人たちまでも私をあざけり、唾をかけ、時には歩道のぬかるみに押しやったりしました。悪魔が植え付けた憎しみが私の心にたまり、肉体に何の問題も持たない人々を傷つけ、殺したいとまで思いました。それでも、私の母は私に歩き方や手の動かし方を教えてくれました。私には母と遊んでいるかのように感じられました。 

 私は幼稚園へ行き、小学校の最初の五年は困難を覚えながらも、脳性小児マヒを理解しない子供達と一緒に勉強しました。同時に病院や整骨院にも通っていました。 五年生の時、体の事情、つまり耳が聞こえないことと、手が思うように動かないことがきっかけで落第してしまいました。書こうと努力するのですが、鉛筆もペンの先も折れてしまうのでした。 

 その頃、両親はオハイオ州エリリアにあるろう者と難聴者の学校へ行くよう手配をしてくれました。そこで私は五年間メアリー・スポウル先生という特別な訓練を受けた先生のもとで、唇を読むことと、私のもつれた舌を何とか制御することを習いました。同時に通常の授業も受けました。初めの一年は、毎日エイボンレイクとエリリヤを行ったり来たりしながら通学していました。二年目はエリリヤのチャールトン一家と共に生活しました。 

 十代の半ばから私は、オハイオ州エイボンにある福音的バプテスト教会へ通いだしました。当時はV・D・ゲレン先生が牧師でした。一九四〇年の八月のある夜、ゲレン牧師は説教なさっていました。先生は知らなかったでしょうが、そのメッセージは正に私のためでした。主の御霊は私の滅びゆく魂のために先生の心に働きかけられたのです。 

 私はヨハネ三・三のお言葉を先生の唇を通して読みました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」そのお言葉は、霊的な事柄を知らない(生まれながらの人間は御霊に属することを受け入れないのです。コリント前書二・十四)私を確実にとらえました。初めは肉体の目が見えないことを語られていると思いました。 

 しかし、集会の後、私の友人(私を理解し、私の通訳となってくれた人)と私は、先生にヨハネ三・三に書かれている「見る」とはどういう意味なのかを尋ねに行きました。私は先生に、私の肉体の障害はもう十分ですから盲目にはなりたくないと話しました。先生は、私は生まれ変わっても救われてもいないので既に盲目だと言いました。そして、主は肉体的な盲目ではなく霊的な盲目のことを語っておられるのだと言いました。先生は私がどれだけ醜い者であるかを話し始めました。それはすべて本当のことでした。聖書に記されている通りです。私は、「自分が身障者であることは良いことだ」と度々言いました。 きっと先生は面食らったことだと思います。 

 私は、神の言葉は両刃の剣よりも鋭いことが分かりました(ヘブル四・十二)。それから私は言い訳を始めました。私は先生に「あなたが言うほど私は醜くはありません。なぜなら、私はもつれた舌で空しく主を唱えることも、耳のために汚れた話を聞くことも、愚かなことを手がすることも出来ないからです。」と。先生は、「どのようにして汚い話を聞くことや、主の御名をみだりに唱えることや、悪いことをすることを知ったのか。」とお尋ねになりました。私は答えられませんでした。 

 先生は、「あなたが罪あるものとして生まれ(詩篇五一・五)、罪をすでに犯しているから(ロマ三・二三)だ」と言いました。悪魔は私から立ち去ることなく、私を次の弁解へと駆り立てました。今度は、「主は私が身障者であるから天国へ入れて下さるはずです。」と答えました。またもや、神に仕える人であるその牧師は神の言葉を用いて「神にはえこひいきがない(ロマ二・十一)」と言いました。 

 その夜、弁解も抗議も尽き、私は神の家族の内に新しく生まれ、神様の子供になりました(ヨハネ一・十二)。神の御言葉は真実であり、私の心に変化が見られました(コリント後書五・十七)。心の中の憎しみは消え失せ、新しい生命が父の御手の内にあって始まったのです(ヨハネ十・二八)。 
 

 (その2につづく) 
 
 


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