(その2) 

 その頃から、私の両手は良くなってきました。私は十七年間病院や整骨院へ通いました。主は祝福をもって私が歩くことと手を使うことを許して下さいました。1947年、私はエイボンレイク高校を卒業しましたが、その前に幾人かの先生や生徒たちから私などは門番くらいにしかなれないだろうと言われました。この痛みを分かって下さい。 

 この時から、ほとんどの少年達のように、仕事探しをして、家からそう遠くないエイボンレイクのクリーブランド電飾会社に勤めることになりました。ここで五年間働きましたが、その間に心臓が悪くなりました。発作が起きて、クリーブランド病院に運ばれ、心臓のまわりの痛みが増す原因を調べました。検査の結果、いつ死んでもおかしくないと言われました。私は発作のため死が近いと思いました。医者でさえ長くは生きられないと思っていました。 

 この時から、私は心に怒りを覚えながら自分の残りの生涯を思うようになりました。「もうすでに十分な苦しみを受けているのに、なぜ、このような痛みや発作を受けねばならないのだろうか。」と考えました。過去を振り返ると、私は自分が神の宮(コリント前書三・一六〜一七)を煙草で汚したり、お付き合いでワインやビールを飲んだことを思い出しました。牧師や日曜学校の先生に指摘されずとも、自分の過ちがよく分かりました。私は真剣に祈りました。       

 ゲレン牧師は、ニュージャージー州のチェスターフィールドに移り、シャディーレスト・バイブル・カンファランスを創立していました。私はゲレン先生に手紙を書き、「先生の所で二週間ほど一緒に過ごしたいのです。」と頼みました。その後のことは、家に戻ってから、主が私にお求めになることをしようと考えました。もし、主が私の生命をとられるとしても、それは主の働きなので、死への恐れはありませんでした。パウロは言いました。「むしろ肉体を離れて、主の御もとにいる方がよい」(コリント後書五・八)。私もやがて主イエス・キリストのような完全な体を持つことも知っています(第一ヨハネ三・二)。ゲレン牧師はその頃オハイオ州で会議に出席なさり、ニュージャージー州に戻られる時に私を連れていって下さいました。それは1952年6月でした。そこでの二週間が過ぎ、私は痛みや発作が軽くなっているのに気付きました。私の両親が迎えに来ましたが、私はそこに留まりたい気持ちでした。結局、私は働くことが出来ませんでしたが、夏の終わりには、心臓や他の所もずいぶん良くなっていました。私はゲレン先生と一緒に生活を続けていました。 

 この時、ゲレン先生は「主はもしかするとご自分の僕として、あなたを用いる準備をされているのかもしれない。」と言いました。私にはそれはとても愚かに思えました。何故、どうやって主は補聴器を付け、話す言葉も理解してもらえないような私をお用いになるのでしょう。これに対して先生は、一台のテープレコーダーを持って来て答えて下さいました。「これを使って話す練習をしなさい。」と言うのです。こうして、私は一年以上もの間、日に二、三時間話す練習をしました。 

 その間、私は主になぜこのような苦痛を受けねばならないのか、又なぜ私はニュージャージーに留まっているのかを尋ねていました。そんなある日のこと、日々のデボーションをしていると、主が私の問にお答えくださり、一つの御言葉が頭をよぎりました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることが出来るのです」(コリント後書一・三〜四)。私はこの二節を何度も何度も読み返し、主が私に立てられたご計画を知りました。更に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ八・二八)の意味がよく分かりました。そうです。主が、私に苦しみを与えることをよしとされたのは、それによって障害を負う人々を主のもとへ導くためだったのです。私は神様が私のような者をもお用いになることがお出来になるのに驚きました。 

 (その3につづく) 
 
 


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