千葉県習志野市のバプテスト教会・ファンダメンタル・聖書信仰・聖書を基本から正しく学びます・日曜学校・カムカム英会話・流山伝道所












≪今週のことば(週報から)≫

  2014年11月

  11月2日
  ◆NBC教会創立五一周年感謝

  11月9日
  ◆福音宣教のために心を一つにする教会

  11月16日
  ◆バプテストの特徴(一)

  11月23日
  ◆バプテストの特徴(二)

  11月30日
  ◆バプテストの特徴(三)

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  最新の週報

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◆ NBC教会創立五一周年感謝

習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一一月二日号
▽「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。 」(ピリピ一・二七)

 

  …あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。…=@マタイ伝一六章一八節    

 首記の聖句が意味することが何なのか、何世紀にもわたって議論(ぎろん)された。ローマ・カトリック教会は、「『この岩』とはペテロである。イエス様は、ペテロを土台としてご自身の教会(カトリック教会)をお建てになると言われたのだ」と説明する。しかし、「ペテロ」はペトロスというギリシャ語で、一つの岩を意味し、「この岩」はペトラであり、家を建てることが出来るような大きな床岩(とこいわ)を意味する。故に、「この岩=ペテロ」とするローマ・カトリック教会の説明は正しくない。さらに、「 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ二・二〇)というみ言葉から、ペテロだけが、特別な権威(けんい)を持っていたのではないことがわかる。では、「この岩の上に」とは、どのような意味であろうか。    

 ステュワート・カスター博士は、「『この岩』を、キリストご自身のことと説明する人がいるが、この聖句は、イエス・キリストが教会をお建てになることを教えている。使徒たちの教え、伝道という土台の上に教会は建てられていく、というのがより良い説明であろう」とマタイ伝注解書(ちゅうかいしょ)に記している。    

 ペテロは、イエス・キリストの福音を曲げることなく人々に語った【ペンテコステの日(使徒二・一四以降)、コルネリオの家族に(使徒一〇・三四以降)】。パウロは、あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)≠ナあると教えた。使徒たちの教えと伝道は、十字架につけられたキリスト(Tコリント一・二三)についてであった。    

 首記の聖句から二つのことを学ぶ。@教会建設は、人間の業(わざ)ではなく、イエス様のみ業(わざ)である。A「この岩の上に」が「使徒たちの教えと伝道の上に」の意味であるならば、教会は託(たく)されたイエス・キリストの福音をまっすぐに語り続けなければならない。自らが語る福音に基づいて生活し、キリストに倣(なら)う者(弟子)と日々変えられていかなければならない。    

 一九六三年一一月三日、八人の教会構成員をもって、「習志野バプテスト教会」が正式に組織された。ご自身の尊い血をもって贖(あがな)われた、イエス様の教会である。この地に習志野バプテスト教会をお建てくださり、この五一年間変わることなくお支えくださった主イエス・キリストの御名を高らかに誉(ほ)め讃(たた)えよう。感謝とともに、イエス様に忠実に従っていく決心をしよう。    

   

◎ 暗誦聖句  エペソ書一章七節


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◆ 福音宣教のために心を一つにする教会

習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一一月九日号
▽「 霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘(しよう)」 (ピリピ一・二七)

 

  あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。<}タイの福音書一六章一八節    

 前回は、イエス・キリストが教会をお建てになることを学んだ。イエス様は、クリスチャンが宣教するご自身の福音を通して、教会をお建てになる。私たちは福音をもっと熱心に、積極的に、真剣に語ろう。福音を語る私たちを拒(こば)む人がいるだろう。しかし、福音を語るなら、イエス様を信じて救われる人も必ずいる。    

 ハデスの門もそれには打ち勝てません≠ニいう聖句を「ハデスの門は教会を飲み込むことは出来ない」とイメージする人が多いようだが、それは正しくない。カスター博士は、「門は固定されていて動くことはない。イエス様が教えていらっしゃることは、教会が福音宣教をし、悪魔の支配下にある人をキリストのもとに勝ち取ろうとする時に、ハデスの門は強い力を持ってはいないということだ。キリストがハデスの門を粉砕して、キリストから与えられる救いによって多くの人々が死の恐怖から解放されるのだ」と説明している。    

 教会が、熱心にイエス様の福音を宣教すると、悪魔は激しく妨害(ぼうがい)をしてくる。しかし、首記(しゅき)の聖句は、私たちの主イエス様は、悪魔よりもはるかに強いお方であり、ハデスの門を完全に破壊する力をもったお方であると教えている。私は福音を恥(はじ)とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です=iローマ一・一六)とパウロは証している。    

 教会は、世と罪深い事柄(ことがら)とから召し出されて、主(しゅ)に属している人の集まりである。イエス様がリーダーであり(エペソ五・二三)、教会はキリストのからだである(エペソ一・二三)。パウロはTコリント一二章で「一つのからだ」を強調している。ローマ一二章でも、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです=i五節)と教えている。    

 主は ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる=iUペテロ三・九) 。主のからだである私たちは、主のお心のために最善を尽くし、協力しあっているだろうか。自分のことに忙しく、イエス様のお働きは「誰かがするでしょ」と考えていないだろうか。福音宣教のために、心を一つにして協力しあう教会を目指そう。主はそのような教会を祝福してくださる    

   

◎ 暗誦聖句  エペソ一・七
我(われ)らは彼(かれ)にありて恩惠(めぐみ)の富(とみ)に隨(したが)ひ、その血(ち)に頼(よ)りて贖罪(あがない)、すなはち罪(つみ)の赦(ゆるし)を得(え)たり。


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◆ バプテストの特徴(一)

習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一一月一六日号
▽「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 」(詩篇一一九・一〇五)

 

  先週の午後集会で丸山先生から、「バプテストの特徴(L・フレイジャー先生著)」を読み、私たちが信じていることを理解するようにとお勧めをいただいた。英語ではBAPTISTSと書くと、それぞれのアルファベットがバプテストの特徴をうまく説明している。    

一、聖書の権威(Biblical authority)    

 聖書のみが信仰と行動とのために唯一の権威であるという意味である。ローマ・カトリックは、教父(きょうふ)や法王によって伝承されてきた教義を伝統と呼び、「伝統」を聖書と等しい権威と考える。宗教改革以後に起こった自由主義は、聖書だけでは不十分で、理性と経験を加えなければならないと言う。誤りのない神様の御言葉のみを信じればよい私たちは何と幸いであろう。    

 私たちは唯一の権威である聖書に従って生きているだろうか。従うためには聖書を読み、御言葉を理解しなければならない。あなたに対する神様の愛と知恵の深さを知りたいと願って聖書を読んでいるだろうか。    

 パウロはエペソ一章三〜一四節(ギリシャ語では一つの長文)で、クリスチャン信仰にとって土台となる真理(しんり)を列挙し、神様を賛美している。その直後にパウロはどうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵【理解力】と啓示(けいじ)【真理を隠していた覆(おお)いを取り除く】の御霊(みたま)を、あなたがたに与えてくださいますように=iエペソ一・一七)と祈った。    

 投獄された者の心をも躍(おど)らせる神様の真理が、日々の生活にとっていかに重要であるかをエペソの信者が理解できるかどうかパウロは案じた。霊的な事柄を理解するためには霊的に開かれた目を持たなければならない。 …「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです…=iTコリント二・九、一〇)。    

 聖霊のこの特別なお働きをエペソのクリスチャンが経験できるようにあなたがたの心の目がはっきり見えるように=iエペソ一・一八)とパウロは祈った。自動的には心の目がはっきりと見えるようにはならないし、心の目がはっきりと見えるようになるのは一般的なことではない。    

 イエス様をよく知り、聖書を自分の生活に適用するために、聖霊に心を照らしていただかなければならない。パウロの祈りを自分の祈りとしよう。聖霊があなたの心の目を開いてくださるならば、真理は単なる知識ではなく、現実のものとなる。聖書は難しくて退屈(たいくつ)な書物ではなく、あなたの人生の確かな手引きとなる。     

   

◎ 暗誦聖句  マタイ伝七章七節
求(もと)めよ、さらば與(あた)へられん。


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◆ バプテストの特徴(二)

習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一一月二三日号
▽「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Tテモテ六・六)

 

二、地方教会の自治(Autonomy of the local church)    

 教会の全会衆が神様の御前に責任を負うことを意味する。会衆政治とも言われる。教会の上にどのような監督機関も持たない。教会は神様の御言葉に基づき、聖霊の導きをいただいて全ての問題を解決しなければならない。教会が教会内の問題に対して責任を負うならば聖さが保たれ、背教は広がりにくくなる。    

 コリント教会には未信者にも見られない不品行を行う者がいた。パウロは …からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました=iTコリント五・三) と言った。その理由は、教会が罪を犯した者を御言葉によって裁き、交わりを絶つことによって、その人が罪を悔い改めて主との関係を回復するためであった(四、五節)。    

  次にパウロは、不品行の者を放置していた教会に指導をしている。パウロはこの手紙の前にも「不品行の者とは交際をしないように」と指導していたが、コリントの信者は、その意味を理解していなかった。そこでパウロはそれは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです」(一〇、一一節)と説明した。    

 交わりを絶つべき人たちのリストを見て、私は驚いた。バーグ先生の本から「もっと欲しいという欲望こそ心に起こる全ての誘惑の土台」であると学んだ。神様がくださっている恵みで満足しない人は、満足を求めて不品行に走り、それでも満たされず貪欲になり、神様以外の何かを神として崇め、欲しいものを手に入れる邪魔ものをそしり、虚しさを忘れるために酒に酔い、欲しいものは手段を選ばず手に入れる、という関係が見えた。    

 私たちを愛し、必要を満たしてくださる神様への疑いと不満足は恐ろしい罪である。あなたは不道徳や略奪の罪は犯していないかもしれない。しかし、神様との関係で心が満たされていなければ、罪の誘惑に負けやすい状態にある。「そしる」は他人を悪く言う、非難するの意味で、類義語は「けなす」である。パウロは私たちの教会を見て何と言うだろうか。詩篇一三九・二三、二四のように、神様ご自身に心をさぐっていただこう。     

   

◎ 暗誦聖句  エレミヤ三一章三節「」内
我(われ) かぎりなき愛をもて 汝を愛せり。


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◆ バプテストの特徴(三)

習志野バプテスト教会週報
二〇一四一一年三〇月日号
▽「私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方」(ヘブル八・一)

 

三、全信徒の祭司職(Priesthood of all believers)    

信者は誰でも他の人の助けなしに神様を礼拝できるという意味である。    

 生まれ変わった信者は直接に罪を告白し、イエス・キリストの御名によって祈ることができる。私たち信者はキリストによって祭司とされた(黙示一・五〜六)。旧約時代、祭司だけが聖所に入ることができた。イエス様によって罪をきよめられ、祭司とされた私たちは「イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができる」(ヘブル一〇・一九)のである。    

 旧約時代、祭司は絶えず神と人との間に立って執(と)り成(な)しをした。祭司は神様のために人々を教え、人間のためにいけにえをささげた。キリストの十字架の犠牲によって神様の全ての要求は満たされた今、私たち祭司に求められることは、「神に喜ばれるいけにえをささげ(る)」(Tペテロ二・五)こと、祈りによって執り成すこと、教えることである。信仰と行動のための唯一の権威である聖書(神様の誤りのない御言葉)を教えるのである。    

 完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます=iヤコブ一・二五)。    

 この聖句は、御言葉の学びには集中と継続が必要であることを教えている。御言葉を「一心に見つめる」とは、絨毯(じゅうたん)の上に落としたコンタクトレンズを探すときに似ている。両手両膝(ひざ)を床につけて、顔を絨毯に近づけ、見える片方の目で食い入るように透明で小さなレンズを探すのである。    

 御言葉を読むだけでなく、黙想するのである。どれだけ黙想し続けるのか。ヤコブはその御言葉を忘れることができなくなるまでという。更に、覚えるだけでなく御言葉を実践して豊かな実を結ぶまで黙想すべきと言う。    

 「でも、聖書は難しくて読んでも分かりません」と言う人もいるだろう。確かに、理解できないことを学び続けるのは苦痛である。しかし、何かを学ぶためには努力しなければならない。何かを学ぶためには時間が必要であり、そのために何かをあきらめなければならない。神様をよく知り、神様の御言葉を理解できるように、御霊の助けがあるように祈ろう。御霊に心が照らされて、心の目がはっきりと開かれるように祈るならば、少しずつであっても御言葉の理解が与えられる。御言葉の黙想は楽しみとなろう。    

 祭司の働きが妨(さまた)げられないように自分の心と生活を清く保つことも、祭司には必要である。全信徒の祭司職は、信者の責任と祝福と特権を教えている     

   

◎ 暗誦聖句  エレミヤ三一章三節 先週の続き
故にわれたえず汝(なんじ)をめぐむなり


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