≪今週のことば(週報から)≫
2014年1月
1月5日
◆まことに主は大いなるお方
1月12日
◆まことに主は大いなるお方(2)
1月19日
◆礼拝奉仕者として整えられていこう
1月26日
◆まことに主は大いなるお方(3)
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最新の週報
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◆ まことに主は大いなるお方
習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一月五日号
▽「まことに主は
大いなる方、
大いに賛美さ
れるべき方。」
(詩篇九六・四)
1 新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。
2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。
4 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。
5 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。
6 尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。
7 国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。
8 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。
9 聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。
10 国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」
11 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
12 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。
13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。
詩篇九六篇
「主は大いなるお方である」というのがこの篇の中心テーマと言えるであろう。主は、知恵と力において大いなるお方であり、愛と憐れみにおいて大いなるお方である。大いなる主を知ると、人は、神様の偉大さに驚き、御前にひれ伏して礼拝をささげ、御名をほめたたえ、神様を他の人にあかしするようになる、と記されている。信仰生活のすべては、「主は大いなるお方である」ことを知ることにかかっていると言えるだろう。ペテロは次のように勧めた。
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの 恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、 栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。 アーメン。=@Uペテロ 三・一八
神様の創造の御業に目を向けてみよう。宇宙、海、植物、昆虫、動物などを学ぶならば、創造主の愛、知恵、力に驚くはずである。神様が私たちの人生になしてくださったことも、大いなることで驚きである。
神様は、私たちに聖書をお与えくださった。神様と神様のご計画について、聖書に示されている。大いなるお方をこれまで以上に知る一年となるように、祈り求めよう。そして、そのために何ができるか考えよう。
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◆ まことに主は大いなるお方(2)
習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一月一二日号
▽「わたしを呼べ。
そうすれば、
わたしは、
あなたに答え」
る
(エレミヤ三三・三)
1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
詩篇四〇篇一〜三節
◆主は、私たちを大いに愛してくださる。
神様は、「それで、それから」 とおっしゃるかのように、身をのりだしてあなたの祈りをお聞きになっている。あなたの必要を満たしたいのだ。年を重ねると、同じ事を繰り返して言うことがある。私たちは、「何回もきいたよ」と言いやすい。相手の方を見て、笑顔で「どうしたの。話して」ということは難しいと誰もが感じているだろう。神様が、人間とは違い、憐れみ深く、愛に満ちているお方であり、感謝である。同じ失敗を繰り返し、「神様、助けてください」と叫びをあげても、「またか」「自業自得(じごうじとく)だ」「うるさい」と怒らずに、祈りにお答えくださる。願った答えが与えられない時は、苦しみに耐えるに十分な恵みをお与えくださる。神様の人類への愛は大きく、人は神様の愛を自分の手で得ることはできない。受け入れるのである。よって、自分の弱さの故に、神様の愛を失うことはない。神様を信頼して祈ろう。
◆主は、憐れみ深い。
憐れみには多くの側面があるが、みじめな状態から救い出す、というのが基本的な意味である。「滅びの穴」「泥沼」に落ち込めば、脱出しようとする。ところが、状況はかえって悪くなる。自分の力ではどうにもならない。そうしたみじめな状況で、神様に助けを求めると、神様は救出してくださる。悪魔の奴隷として苦しむ「滅びの穴・泥沼」からも神様は救出してくださる。神様に救われる前の自分のみじめな状態を知っている人は、神様を大いに賛美することだろう。
◆主が、私たちに「新しい歌」、すなわち、神への賛美をお与えくださった。
「新しい」とは、つくりたてとか、時間がたっていない、という意味ではない。質が違う、という意味である。神様に救われた者にふさわしい性質の歌という意味である。賛美は神様がお与えくださったものであり、賛美は私たちが信じる「お方の性質」を現す。それゆえに、神への賛美を聞き、賛美する者の姿を見て、多くの人は驚く。そして、これほどまでに人を造り変えられる主を畏れ、主を信じるようになる。
◎大いなる主をよく知り、主に似る者と変えられよう。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章八節
幸福(さいわい)なるかな、心(こころ)の清(きよ)き者(もの)。その人(ひと)は神(かみ)を見(み)ん。
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◆ 礼拝奉仕者として整えられていこう
習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一月一九日号
▽「慎みと恐れとを
もって、神に
喜ばれるように
奉仕」しよう。
(ヘブル一二・二八)
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。=@U歴代五・一三
「歌うたい」は、アサフ、ヘマン、エドトンと彼らの子供達と兄弟達である(一二節)。T歴代誌二五章に詳しく記されている。一二人組の音楽奉仕隊が二四隊あり、総勢二八八名であった。シンバル、十弦の琴、立琴を手に歌を歌う達人たちであった【アサフ四隊、エドトン六隊、ヘマン一四隊】。他に、ラッパを吹く祭司たちが一二〇人いた。ソロモンが建てた宮の奉献式には、四〇〇人位の音楽奉仕者がいたと思われる。
彼らは「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌った。「いつくしみ深い」は英語では good(善) である。神様が善であられるというとき、二つのことを意味する。@神様はすぐれたお方である。A慈悲深く善意に満ちたお方である。私たちが罪を繰り返し犯しても、心から悔い改めて神様に赦しを求めるならば、罪を赦し、愛を豊かにそそいでくださり、私たちに最善をなしてくださる。しかも、神様の愛、恵み深さ、憐れみ深さ、いつくしみ深さは変わることがない。音楽奉仕者が賛美した「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」は彼らの心からの叫びであった。
四〇〇人もの人が一致して歌声を響かせることができた理由は何であろう。彼らの主への愛と謙遜、すなわち、主を知り、主のお姿に似る者と変えられていたからだと思う。主の偉大さを知り、御前にへりくだっていたので、神様の御栄光のためだけに奉仕は献げられた。自分のためではなかった。いかに自分自身に死んで、思いと声を仲間と一つに合わせるかを互いに求めなければ、四〇〇人の声と楽器は一つに合わない。
偉大な神様に奉仕をおささげするには、自分のベストでも十分でないことを知り、努力し、勤勉に練習したのだろう。レビ人は、二五才から任務につき、先輩から学び訓練を受けた(民数記八・二四)が、三〇才までは奉仕者として登録されなかった(民数記四章)。彼らは、二五〜三〇才まで訓練を受け、奉仕者として整えられていった。指揮者に従い、指揮者の心をくみとる訓練も受けたであろう。
主は、彼らの賛美を受け入れられ、宮は主の御栄光で満ちた。私達も礼拝奉仕者として整えられていこう。
◎ 暗誦聖句 コリント前書一〇章三一節
さらば食(くら)ふにも飮(の)むにも何事(なにごと)をなすにも、凡(すべ)て神(かみ)の榮(えい)光(こう)を顯(あらわ)すやうにせよ。
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◆ まことに主は大いなるお方(3)
習志野バプテスト教会週報
二〇一四年一月二六日号
▽「神の国と
その義とを
まず第一に
求めなさい。」
(マタイ六・三三)
ジム・バーグ博士の "Created for His Glory(神様の御栄光のために創造された)" からの引用
神様は永遠に存在なさるお方であり、絶対的な主権者である。これは全宇宙の中心をつらぬく事実である。神様はすべてに一番であり、優れたお方である。もし、神様の最優先性を歪めて理解したり、忘れたりすれば、すべてのことが的外れになってしまう。神様こそ最も偉大なお方であり、最優先されるべきお方であることは、聖書のいたるところで教えられている。いくつかの聖句を見てみよう。
「初めに、神が天と地を創造した。」 創世記一・一
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連 れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト二〇・二〜三
「きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だ けが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。」申命記四・三九
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ローマ一一・三六
「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアル ファであり、オメガである。」黙示録一・八
神様がすべてにおいて最優先されるべきお方であり、最も偉大なお方であることを、時間をかけ、熟考しなければ、他の全てが私たちの目に大きく映る。問題は大きく見え、誘惑は強くなり、目標は遙か遠くで目標達成は不可能に見える。神様の最優先性を意識していないと、私たちは目を覆われている状態で生きているようなものである。
誰かを導く立場にあるとき、「盲人を手引きする盲人」であり、悲劇である。なぜなら、盲人が盲人を手引きするなら、二人とも穴に落ち込む(マタイ一五・一四)のである。心満ち足りた、安定したクリスチャンは、神様こそすべてに最優先されるお方として考えている。
神様の最優先性は、神様の御栄光と切り離して考えることはできない。神様の御栄光を正しく理解しているクリスチャンは少ないように思う。チャールズ・ライリーは、「神様の御栄光は、何らかの方法で示される神様の重要性、輝き、そして畏敬の念を起こさせる荘厳さである。」と説明している。何かの栄光とは、それを一番とならしめる優れたことであり、その故に他のものとは異なる唯一性である。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章三三節前半
まづ神(かみ)の國(くに)と神(かみ)の義(ぎ)とを求(もと)めよ、(さらば凡(すべ)てこれらの物(もの)は汝(なんじ)らに加(くわ)へらるべし。)=@
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